仏像と日本人-宗教と美の近現代 (中公新書)
によって 碧海 寿広
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内容紹介寺や仏像と日本人はどのように関わってきたのか。岡倉天心、和辻哲郎、高村光太郎、土門拳、白洲正子、みうらじゅんなどを通して、この国の宗教と美のかたちを浮き彫りにする。内容(「BOOK」データベースより)仏像鑑賞が始まったのは、実は近代以降である。明治初期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐、すべてに軍が優先された戦時下、レジャーに沸く高度経済成長期から、“仏像ブーム”の現代まで、人々はさまざまな思いで仏像と向き合ってきた。本書では、岡倉天心、和辻哲郎、土門拳、白洲正子、みうらじゅんなど各時代の、“知識人”を通して、日本人の感性の変化をたどる。劇的に変わった日本の宗教と美のあり方が明らかに。商品の説明をすべて表示する
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毎朝、般若心経を唱えるようになってから、自分が仏教徒であるということを確信するようになった。そのような時に、奈良を訪れて特に興福寺と新薬師寺並びに中宮寺などに参拝したが、そこで、仏像の美しさに感嘆した。その前に(奈良へ行く前)、興福寺貫首・多川俊映の「仏像みる・みられる」を読んで、仏像とは美的鑑賞の対象か、宗教を前提として拝観すべきか、についての論を読んで、宗教的な感覚を保とうと思って参拝したのだが、それでも特に新薬師寺の香薬師像の美しさには感銘を受けた。さて、この本である。著者は、主題として「近代以降の仏像や、それに対する人々の向き合い方」を論じている。路傍の石仏に花が供えられている昔ながらの拝仏に対して、明治以降に博物館や美術館に陳列されている仏像を、信仰対象として拝むのではなく美術品として鑑賞する人々が増えたことに関して、即ち、仏像をめぐる近代以降の変化を論じているのである。初めに、「日本美術史の構築と仏教」と題して、フェノロサ、岡倉天心、と言うよく知られている美術館・歴史家を紹介し、仏像を美術品として認識した九鬼隆一という初代の「東京国立博物館」の館長を通して、その頃の日本国政府の仏像に対する考えを述べている。現在は、博物館や美術館に仏像が陳列されていることのなんの疑問を抱かないのであるが、著者により当時の歴史を紐解いてもらうと、日本国政府が列強各国の影響を受けて仏像を保護するようになったことがわかり、興味深いものがあった。これに対して、美術史家の大村西崖が、「博物館に仏像を寄託し、本尊をして芸術品の待遇を受けさせるのは本来の仏事ではないだろう、仏教博物館の創立が必要だ。」という主旨の意見を述べる。私はこの言に、謦咳に接した思いだった。さらに仏像をどのように拝観するか、について、著者は白洲正子氏の意見を紹介している。白州氏は、お寺の宝物殿などに行く時に、最初に解説を読む、ということを批判して次のように述べている「まずは自己の身体で持って仏像と向き合うべきであり、それに先立ち歴史や美術の知識を挟んでいては、仏像の真価はつかめない。」まさに正鵠を射る言葉ではあろうが、そこまでの境地には今の自分は入れないだろうという気がする。仏像をどのように拝観するのか、會津八一、和辻哲郎、亀井勝一郎、串田孫一、など今はなき錚々たる人物による仏像感も述べられていて、読み応え十分な内容だった。驚いたことに、と言うと著者には大変失礼になるが、1981年生まれの少壮の学者とは思えない、深い内容のある著作だ。
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